
今日は、日曜日。
日曜日は師匠がインド人の弟子たちに教えなきゃいけないから忙しいということで、
タブラレッスンはお休み。
さて、これまでのオイラだったら、
「休みなんだからタブラー練習はほどほどにして、他にやらねばならぬことをやろう」
と、日記書きとかビデオ編集とか始めちゃっていたところなのだが・・・今は違う。
「休みなんだから、とことんタブラー練習をしよう」という気持ちなのだ。
これは、いい意味でオイラが変わったこと。
これまで、自分が一番やりたいことが打楽器だって分かっていたにも関わらず、
他にやらねばならないことがある、と
日記書きやビデオ編集などなどに時間を費やしてしまい、
結局、打楽器練習は時間が無くなったからやらずじまい、という状態がずっと続いていた。
それが、今や、とにかく時間があったら、まず打楽器練習。
(おかげで、日記やブログ更新、ビデオ編集が遅々として進まない・・・)
とにかく、打楽器練習が楽しくてしょうがない。
一日中やれちゃう感じなのだ。
ご飯を食べる時間がもったいないと思うほどの勢いで。
と、ここまで気持ちが変化できないと、独り立ちしちゃいけなかったんだ、と気づいた。
今まで、いろんなところで太鼓修行をしてきたのに、どれも身につかなかったのは、
練習できる体になっていないのに、旅を再開させていたから。
いつも「習ったことは旅しながら身につけよう」と、思っていながらも、
結局、できなかった。
ご飯を食べる時間がもったいないって思うくらいのめり込めるくらいになってないと、
旅しながら練習なんて、できやしないのだ。
なぜなら、旅はご飯を食べるのと同じくらい面白いから。
で、さらに・・・
そうか、これが、意識高い系の人と、本当に意識高い人の違いなんだ、とも気づいた。
これまでのオイラは意識高い系の人だった。
出来るようにならないのに「修行やってま~す」とアピール。
<修行をやっている自分>を見せたいだけの人、だ。
本当はちゃんと上手くなりたい気持ちがあるんですけど・・・と、言うのは勝手。
身につけるための復習練習をしなくて、行動が伴わないし、
やったことが身についてないから、修行をやっただけじゃん、ってことになる。
本当に意識が高い人は、
淡々と修行をするものなのだ。
修行の様子をアピールしている暇なんてないものなのだ。
そして、素晴らしい結果だけを見せてくれるものなのだ。
タイのジュンちゃんのところで「タブラ叩いて」と言われたのに、ちゃんと叩けなかった。
シンガポールのSKさんのところにもタブラを持っていたのに、やっぱり叩けなかった。
ジュンちゃんもSKさんも
「なんだ、できないんじゃん。習っただけの人か」
って思ったに違いない。
そう、あの時はこれまでと同じで、習っただけの男だった。
いつまでも習いはじめた状態から脱せない男だった。
悔しかったけど、だからといってどうすることも出来ない自分にまたもどかしさを覚えていた。
ちょっと前に、ネットでホリエモンが寿司職人の長い修行を否定してたじゃないですか。
ああいう修行否定ができるのは、才能があり、才能で生きて行けている人だからなんです。
擁護している人たちもそういう人たちばかりだと思う。
世の中には、才能がないのに、それが好きでできるようになりたいと思う人たちもいる。
そういう人たちにとって<長い時間をかけてやる修行>は必要なのだ。
ただ技術を教えてもらうだけで終わるのであれば、短期間でいいだろう。
才能がある人は、それで十分なんだろう。
でも、才能がない人は、
技術を教えてもらう以上のことを体得しなければ、出来るようにならない。
やり続けられる体にならなきゃ、独り立ちした後、続けられない。
そのやり続けられる体を作るのに、長い時間が必要なのだ。
以前のオイラだったら、ホリエモンの発言を肯定していただろうな。
でも、今は違う。
自分のことを、才能がある側の人間だ、なんて思っちゃっていたのが、
過大評価であり、勘違いだったんですわ。
タブラ修行で、出来ないことを突き付けられ続けたおかげで、
最近ようやく、自分が才能ない人間だって気づけた。
才能がないけど、好きで出来るように成りたい畑の人間だったんだって。
そういう人間は、時間をかけてちゃんとやらなきゃダメなんだって。
実は、まず、そこに気づくのにすら膨大な時間が必要だったりする。
オイラがやるべきだったのは、
自転車で世界一周するという面的な広がりで見聞を広めることではなく、
一か所に留まって点的なアプローチで深堀りすることだったんだろうな。
今なら、タイでお坊さんに言われたことの意味が分かる。
「中の世界はいいですよ。実は中の世界は外の世界よりも広大で興味深いことばかりなんです。中の世界に入れるようになれば、世界旅なんてする必要ないんですよ」
と言われた言葉の意味が。