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今日のタブラレッスンで、新しいフレーズとして、ガットカイダNo.3を教えてもらった。
それなりに難しいフレーズなのだが、すぐに叩けるようになった。
今日感じた<叩ける>っていう感覚は、
以前のように頭で理解しただけとか、出来てもないのに出来たと思うのとはちと違う。
体をちゃんとコントロールして叩けているという実感を持って叩けていると思えた状態だった。

レベルが一つ上がれた気がする。

たぶん、これはレベル3へ突入したってことなのかも。

タブラ修行を始める前、オイラはずっとレベル1の人生を彷徨っていた。
自分の価値観が絶対だと思っており、
太鼓を習うにしても、
人の言うことは基本的には聞かず、
吸収するのは、上っ面のテクニックだけ。
しかも、その上っ面のテクニックを知ることが、
習うことだって勘違いしていたから、
上っ面のテクニックをただ<知って>終わらせていた。
覚えることすらせず、<知るだけ>で満足しちゃってた。

そして、それは、太鼓に限らず、全てにおいてそんな生き方をしていた。
物事全てを知るだけで終わらせちゃうんだから、
オイラ自身を形成する<身についたもの>なんてものは、実は何もなかった。

だから、大学時代から、何一つ成長していない自分にモヤモヤしていた。
そして、旅に出てもそのモヤモヤはつきまとっていた。
太鼓修行をしているのに、全然上達しないってのに、もどかしさを感じていた。

ずっと、レベル1だったのだ。

で、そんなレベル1な自分を自覚し、
修行しているようで、実は修行なんてしていなかったんだ、と気づき、
修行に対する態度を入れ替えたのが、タブラ修行だった。

この旅中の太鼓修行が最後になるから必死になったってのもあっただろうし、
ケシャヴ師匠の教え方がそのことに気づかせやすい教え方だったってものあっただろうし、
理由は一つではないのだが、とにかく修行に取り組む態度が変わった。
自分の価値観を捨て、師匠の言うことをただ素直に聞いて、
それをただ愚直に実践し、
知るだけで終わらせることなく、体に叩き込むことにしたのだ。

おそらく、この態度の入れ替えがレベル2に突入した瞬間だったんだと思う。

タブラ修行が、これまでのあらゆる体験と全く違う感じだったのは、
オイラの中でレベル2に切り替わったから、だったんだと思う。
(ブログを読んでくれている人の中には、
タブラの取り組み方が、今までと全然違うことに気づいてくれた人もいることでしょう)

で、タブラ修行の前半戦は、この突入したレベル2で、悪戦苦闘していた。

自分の価値観を捨て、師匠の言うことをただ素直に聞いて、
それをただ愚直に実践していく、
ということを、自分の中に定着させるのが、想像以上にめっちゃ大変な作業だった。
レベル2はひたすら、自分との戦いだった。
速いフレーズが早く叩きたいとか、
早くたくさんのフレーズを知りたいという自分の心を抑え、
師匠が毎日1つだけ教えてくれるフレーズに集中して練習していく。
そんな単純なことが、最初はやれなかった。

レベル2でやるべきことをちゃんと出来るようになってきたのは、
第二回目のタブラ修行に突入してからだった。
第二回目は、とにかく、タブラ練習に時間を費やすことに決めたのだ。
当初はカレーつくりとかビデオ編集とかも余った時間でやろうと思っていたのだが、
それは止めた。
とにかく、タブラ修行だけに集中することにしたのだ。

そして、レベル2を抜けるキッカケとなったのがヴィパサナ瞑想だった。
自分の概念をはぎ取る術を教えてくれ、
集中力がなんたるかを実感させてもらい、
さらに、体のコントロール術まで教えてもらった。
おかげで、レベル3に突入できた。

ここ最近、明らかに、タブラが違う楽器のように思えるようになった。
叩いている手がちゃんとタブラの上でまるでダンスしているように動かせるようになった。
そして、フレーズが天から降ってくるようになった。

なるほど、これが太鼓を叩いているってことなのか、と、
これまで味わったことがなかった面白さを感じれるようになった。
やっと、太鼓が叩けてるって、心底思えるようになった。

ふ~、レベル3に突入できて、よかったよ。

これがなかったら、8年間、ただ旅を楽しんだだけで終わるところだった。
レベル1やレベル2のまま日本に戻ってたら、
またモンモンとして生きていかなきゃいけないところだった。

それにしても・・・
レベル3に到達できたら、もう旅じゃなくても人生を楽しめる気がしてきた。
オイラ自身を形成する揺るぎないものが、確実に一つできた。
それに伴って、長年影のようにつきまとっていたモヤモヤが消えた。

日本に戻ってドラムセットを触ったら、全然違う楽器に思えるだろう。
バンド活動を再開したら、全然違う音楽を奏でることが出来るだろう。
それがめっちゃ楽しみだ。

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2015.12.23 Wed l インド l コメント (0) l top
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バラナシでのタブラレッスン、
第二回目のタブラレッスンに突入しても、
レッスンのやり方は、第一回目の時とほとんと変わらない。

まず前日教わったフレーズがちゃんと叩けるようになっているか、
師匠に確認してもらい、OKならば、
師匠が本日の課題となる新しいフレーズを教えてくれる。
基本的に新しいフレーズは1日一つ。
師匠が叩き方の見本を見せてくれるので、
それを真似して、叩く。
叩き方が間違っていたら、指摘されるので、直す。
後はひたすら、それを練習する。

まぁ、楽器修行のレッスンってやつは、
タブラに限らず、ほとんど、こんな感じ。

キューバでのトゥンバドーラも、
ブラジルでのチンバウも、
ジンバブエでのムビラも、
セネガルでのジャンベも、
ブルキナファソでのバラフォンも、
ガーナでのコシュカシュ(アサラト)も、
トルコでのダラブッカも、
こんな感じで習ってた。

そういえば、小さい頃習っていたピアノも、
こんな感じだった。

と、レッスンのやり方は、ほとんど同じはずなのに・・・
今回のタブラは身につき方が、これまでとまるで違う。
特に、ヴィパサナ以降のタブラの上達っぷりは
オイラ自身が驚くほど。

何が違うのか?

これまでの打楽器修行と今のタブラ修行が違うのは・・・
<叩くという身体>を探求しはじめたってことだ。

そうなんですよ。
楽器は頭で考えてやるものじゃない。
身体性が重要だったのだ。

この身体性の話、前にもブログに書いてますが、
重要なことなので、また書きます。
今回は、ちょっと違った視点で、ハイ。

オイラが、いつまでたっても打楽器が上手になれなかったのは、
身体性に無頓着だったからなんですわ。

これまでのオイラは、ホント、自分の身体に無頓着だった。

日本にいた時は、まるで体を使わない生活をしてた。
朝から晩まで机とパソコンにただ向き合うだけの仕事をしていて、
家と会社の移動は車。
休日にやることと言えば、映画鑑賞くらい。
たまに、バンドの練習があり、唯一その場面が身体性を必要とする時だったのだが、
それも、肩こりすら感じられなくなってしまったカチコチの体でやるのだから、
身体性を自覚なんてできるワケがない。

今、振り返ると、ホント、ヤバい生活をしてた。
ヤバい体だった。
体重は今より20kgくらい多かった。

そんなオイラが・・・
7年間、世界を自転車で走り続けたことで、
インドで、ようやく、自身の身体性が取り戻せた。

いや、実は、インドでは、まったく自転車で走ってないんですケド(笑)・・・
つーか、もうここ1年くらい、自転車で走る旅はしてないんですケド(笑)・・・
インドは、カレーにしても、ヨガにしても、ヴィパサナにしても、
何をやっても肉体性を強制してくるから、自分の身体に自覚的にならざるを得ない。
で、結果として、インドで、半ば強制的に身体性を取り戻せることになったのだ。

おかげで、タブラが一気に上達しはじめまして。

やっと覚醒ですわ。

実は打楽器が上手くなるために必要だったのは、
フレーズを習うことではなく、
自分の身体性に自覚的になる、ということだったのだ。

以前のオイラは、楽器のレッスンでやらされるゆっくりした練習が嫌いだった。
身体性を無視して楽器と接すると、
頭で楽器を奏でることになる。
で、頭でだけなら、すぐに出来ちゃう気になれちゃうのだ。
理解すればいいだけだから。
それは意外とすぐできる。
だから、ゆっくりした練習が大事だから1時間やり続けろと言われても、
頭ではもう出来たって思っているから、やる意味が分からない。
結果的に、練習時間が少なくなり・・・上達しない。

が、一方、本当の意味で身体性を自覚して、体で叩き始めると、
ゆっくりした練習が楽しくなる。
カラダは頭と違って、すぐに出来るようにならないからだ。
できないところを体に聞きながら練習する。
そしたら、徐々にゆっくりと体で分かるようになる。
これが、楽しい。
楽しいから、ゆっくりやる練習が1時間でも2時間でもやれるようになる。
結果的に、練習時間が多くなり・・・上達するのだ。

これは、楽器に限らない。

よく、「運動しなさい」って言われるじゃないですか。
確かに、運動することはいいことだと思う。
動かないより動いたほうがまし。
でも・・・
運動するにしても、ちゃんと身体性を自覚しての運動じゃないと、実は意味がない。

学生の頃は、オイラも一応運動をやっていた。

中学で野球をやってた時、素振りを毎日1000回やれ、と言われてた。
高校で柔道をやっていた時は、打ち込みを毎日1000回やれ、と言われてた。
大学ではドラムにのめり込んでいたから、特に運動はやってなかったけど、
ドラムの教則本にスティックを交互に叩く練習を一日1時間やり続けろって書いてあった。

これらのこと、最初はやるんですけど・・・
やり続けられなかったんですよ。
こんな地味な基礎練習、やってて全然面白味を感じれなかった。

ホントに体を使うってことがどういうことか、
分かってなかったんですよねぇ・・・

身体性を自覚していなくても、実はある程度のことはできる。
でも、本当の意味で、ちゃんとやれるようにはなれない。

結局、野球はイチローのようにはなれなかった。
結局、柔道は山下泰弘さんのようにはなれなかった。
ドラムは、ニール・パートになれてない。

身体性に自覚的になり、
ホントに体を使うってことかどういうことか分かってくると、
ラジオ体操すら面白くなる。
っていうか、ラジオ体操ってのは、実は、高度に身体性のことを考えられたもの。
これが面白くない、そこに面白さを見いだせないっていうのは、
身体性に無自覚な証拠。
問題ありだと、自覚したほうがいい。

昔はラジオ体操、嫌いだったけど・・・
今のオイラは、
ラジオ体操、めっちゃ楽しめますよ。

そして、今なら、
バット素振り1000回も、
払い腰の打ち込み1000回も、
スティックの1時間叩き続けも、
喜んで出来るのになぁ。

2015.12.21 Mon l インド l コメント (0) l top
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5時 起床
5時~5時半 ヨガ
5時半~6時半 瞑想
7時~ 前日の日記書き
8時半~ 一年半前の日記メモを推敲&HP更新作業
9時~ 朝食
10時~ 宿の部屋でタブラ練習
11時~ 師匠宅でタブラレッスン
12時~ 師匠宅で昼飯
13時~ 師匠宅でタブラ復習練習
17時 宿に帰宅
17時~18時 宿の部屋でタブラ復習練習
19時~21時 夕飯&ネット&写真整理
22時 就寝

基本的に、毎日このスケジュールで生きている、最近のバラナシ生活。

一日中タブラを叩いてるような気がしているのだが・・・
こうやって書き出してみると、
実際にタブラをやっているのは、24時間中、7時間くらいか。
意外と少ないな。

2015.12.19 Sat l インド l コメント (0) l top
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世界一難しい打楽器と言われているタブラ。
そのタブラで、一番叩き方が難しいのが<ナ>の音。
タブラ修行を始めて100日を越えたというのに、未だにちゃんと叩けない。

2015.2.19(タブラ修行2日目)
今日、<ナ>の音の叩き方を教わった。
タブラーの演奏を聴いていると、一番高音で印象に残るこの<ナ>の音。
これこれ、この音を出したかったんですよ。

2015.2.20(タブラ修行3日目)
単体では音が鳴らせるようになった<ナ>の音なのだが、
他の音と組み合わせると上手く音が鳴らせない。
う~ん、やっぱり一筋縄ではいかないな。
まぁ、一応カタチは出来ているから、
あとはひたすら練習していい音が鳴るようにこなすしかないということで。

2015.2.21(タブラ修行4日目)
いい音が出る時もあるし、そうでない時もあり、なかなか安定して音が出せない<ナ>の音。
叩くポイントは合っているのだが、打面にあたる指先だけでなく、手首や肘のポジションがダメだと師匠が修正してくれた。
師匠の言う通り、手首や肘のポジションを気にして叩いてみたら、
なんとなく今までと感じが違う。
なるほど、この手首の角度、この肘のポジションでないと
<ナ>の音を常にちゃんと鳴らすことは難しいのか。
<ナ>の音、つかめたかも。

2015.2.26(タブラ修行9日目)
師匠に「ナの叩き方が問題だ」と指摘された。
<ナ>の叩き方については、最初から叩き方を指摘されていた。
指摘されるたびに、ああ、間違った叩き方をしちゃっているな、と、
その時には思うのだが、クセといか、叩きやすいやり方に流れちゃうというか、
ついつい、自分なりの方法で叩いちゃって、間違った方向に行っちゃう。

2015.3.23(タブラ修行33日目)
「<ナ>の音の時の手のカタチはこうだ」と、
師匠に何度も何度も言われ続けており、今日も同じ指摘をくらった。
たぶん、ピンと来ていないか、間違って分かったつもりになっているのか・・・
やっているうちに、違うカタチになってしまう。
自分のやりやすいカタチに持って行ってしまうので、全然直らない。

2015.3.24(タブラ修行34日目)
「<ナ>の音はそうだ。やっと分かったな」と師匠に言われた。
やっと音がちゃんと出せるようになったよ。
そして、手のカタチをちゃんとしたことで、
叩く時の指の動きがよりスムーズにできるようにもなり、高速叩きも楽になった。
やっぱり、ちゃんと<型>を身につけることは大事だなぁ、と実感。


2015.10.30(タブラ修行78日目)
もう、二回目の修行に突入したというのに、
実は一つ一つの叩き方が、まだちゃんと出来ていなかったってことが判明。
師匠に基礎的な<ナ>と<ティン>の叩き方から教わり直す。
ふおお、また振り出しに戻りかい。
それにしても、叩けるようになったと思っていたのに・・・
そもそも叩き方が間違っていたと、指摘されへこむ。
どんだけ間違ってやっているってことですわ。
正しい型を身につけるセンスがどんだけないのかってことですわ。

2015.11.4(タブラ修行82日目)
さて、今日はいきなりまた叩き方を直された。
いまだに叩き方を直される。
まだまだ基礎すら出来ていないってことだ。
直されたのは<ナ>の音。
え?一回目の修行の時に「分かったぞ<ナ>の音の叩き方!」と何度も言ってたじゃない・・・
ええ、あの時は分かったって思ったんですよ。
でも、実は全然分かってなんていなかったんです。
師匠は最初から言っていることは変わらない。
<ナ>の音を叩く時は、薬指と小指の位置をココに置いて、
手の角度はこうで、手首はちょっと下げて、叩く時は指だけで。
人差し指と中指をふり、人差し指だけタブラーの端のこの位置にぶつけて音を出す、
と正しいやり方を、ずっと言ってくれていたんですよ。
今回も同じことを言われているだけ。

何度も言われているのに、オイラは出来ない。
というか、なんか勝手に叩きやすいやり方に崩してしまっている。
師匠が目の前で実践してくれ、さらにオイラの手の上で叩いてくれたりして、
事細かく教えてくれて「分かった?」と言ってくれる度に「わかった」と答えていたのだが・・・わかってなんていないんですよねぇ。
だから、勝手に型を崩しちゃう。

が、今度こそようやく<分かった>んですわ。
師匠の言う正しい型が、なぜ正しいのか、ようやくちゃんと理解できた。

2015.11.17(タブラ修行93日目)
ナの音の指を少々直される。
が、微々たるものだ。叩き方はほぼ正解になってきた。

2015.11.18(タブラ修行94日目)
やはり、叩き方が問題。
まだ<ナ>の音がしっくりこないのだ。
また!?いい加減、今度こそ<ナ>の音は掴んだって、書いてたじゃない。
ええ、あの時はそう思ったんですケド・・・
やっぱり、分かったなんて思うのはまやかし。

ということで、心地悪い<ナ>の音を解消すべく、
いい音がなるところを探っていたんですよ。
そしたらポイントを見つけることが出来まして。
今まで叩き方ばかりを気にしていて、叩く場所に神経が回らなかったのですが、
実は<ナ>の音は叩く場所が非常に重要。
正しい型で叩いても、ポイントがちょっとズレるだけで、いい音が鳴らなくなるのだ。
かくいう、この正しい場所も、師匠が最初に教えてくれていた。
オイラ自身が気にしなかったのが問題なだけなのだ。
ふ~、ホント、なかなか気づけないもんだよなぁ。

2015.11.24(タブラ修行99日目)
さて、その後、しばらくオイラの練習を見ていた師匠。
おもむろに立ち上がり、「ナの音はこうするといい」と指摘。
いやぁ、<ナ>の音、自分では出来ていたつもりだったんだけど、まだダメでしたかぁ。
叩く時にまだ力入っているというのだ。
支えなしで手を振り下ろした時に叩くのと同じ感じで、叩くといい、と、アドバイスしてくれまして。
で、このアドバイスが分かりやすかった。
なるほど、この感じか、と。
最初から教えてくださいよ~、と思ったのだが、
最初にこれを聞いても分からなかったに違いない。
さんざん悩んだ、今だから分かるこの感じ。

2015.11.25(タブラ修行100日目)
何度も言われていて、毎回、オイラの中を素通りしていってたんだけど、
今回は、オイラの中に染み込んでいった<ナ>の音の叩き方。
今度こそやっと正しい形に持っていけるようになったと思う。
一気に叩くのが楽になった。
そう、正しい型で叩くと、楽に叩けるようになる。
逆に言うと、正しい型を身につけていなくて叩いていると、妙に疲れるのだ。
すぐ疲れるから、面白くなくなる。
その点、正しい型で叩くと、ずっと叩ける。
そして、気持ちが乗ってきて、どんどん面白くなる。

2015.11.26(タブラ修行101日目)
また、<ナ>の音の叩き方を直された。
「・・・」
もう何度目だろう、これを直されるのは。
そして、今度こそ出来たと思っても、やっぱり出来ていなかったってのは。
毎回、出来てもいないのに、出来たって思える自分も、恐ろしいのだが、
何度直されても出来るようにならない自分がもっと恐ろしい。
なんなの自分。

師匠は最初から同じことを言っているんですよ。
同じことを教えてくれているんですよ。
でも、オイラがそれを聞き入れられないだけ。
最初に分からなかったってのは、まぁ、タブラってものが分かっていなかったからしょうがない。
でも、二回目の修行に入って、さらにそろそろ、1カ月経つというのに、まだ分かっていないってのは、どうかしている。

2015.11.27(タブラ修行102日目)
先に部屋に入り、昨日からやりはじめた高速フレーズを練習していたら、師匠がやってきた。「違う」と。
てっきり、高速フレーズの叩き方を指摘されたのかと思ったら、
なんと<ナ>の音の叩き方を直された。
む~ん、またか。
一応、昨日直されて、わかったつもりになったはずだったのに・・・
やっぱり、まだ分かっていなかったっていうか。
自分、どんだけ理解力がないねん、って話ですよ。

2015.12.15(タブラ修行108日目)
ナの音、いい加減、正しい型を身につけることは出来たはずなのに、ちゃんと音が鳴らない。
で、音が鳴らないのは、人差し指の中指の反り返り力がないからだと、ようやく気づいた。
ヴィパサナで体内観察ができるようになって、やっと分かったのだ。
ここの筋力を強化しないと、ナの音はいつまでたってもちゃんと鳴らせるようにならない。

まだまだやらねば、<ナ>の音はちゃんと鳴らせないのか。
ああ、<ナ>の音の道は長い・・・
一体、いつになったら<ナ>の音がちゃんと鳴らせるようになるのだろう・・・
と嘆く、そんなオイラに師匠が一言

「あと2年、毎日8時間練習し続ければ、ちゃんと鳴らせるようになるぞ」

「・・・」

しかし、<ただ鳴らす>ではなく<ちゃんと鳴らす>には
それくらいの修練時間が必要だ、ってことが、最近ようやく分かってきた。
これが<修行する>ってこと。
今までは、<修行ゲーム>を表層的に戯れていただけにすぎなかったのだ。

2015.12.15 Tue l インド l コメント (0) l top
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朝4時に起きることが習慣になってしまい、
バラナシに戻ってからも、4時に目が覚めてしまう。

まぁ、せっかく目が覚めたのだから、
瞑想でもするか、と瞑想を始めてみる。

ヴィパサナセンターでの合宿が終わっても
朝晩1時間ずつ瞑想は続けなさいとは言われてまして。
これまでのオイラだったら、戻った途端に次のことをやりはじめ、
せっかくやったことが身に定着することなく忘れ去ってしまう
という愚行を犯していたところなのだが・・・

タブラ修行を通じて、潜在意識に刷り込むくらいやりこまないと、
やったことが単にやったことで終わってしまうということを、
今更ながらようやく理解したオイラ。

いろいろと気づきを与えてくれたヴィパサナ瞑想を
単にやったことで終わらせてしまうのはもったいない。
ということで、戻ってからも、毎日瞑想は続けようかな、と。

まぁ、そう思えるのは、一か所に滞在している今だからなんですけどね。
幸い今は、最優先でやらねばならぬことは、タブラだけ。
これが移動旅の真っただ中であれば、
次々と起こる新しい出来事や、やらねばならぬことに追われてしまい、
毎日瞑想するなんて、余裕は持てなくなったことだろう。

そう、この辺が、旅と修行のバランスの難しいところなんですわ。

旅なんだから、と移動することを優先しがちなのだが、
そうすると、やったことが身につかない。

移動旅をしながら何かをちゃんと身につけたい、と二兎を追うことは、
思ってたよりずっとずっと難しいことだったんですわ。
やってみて分かった。

さてさて、バラナシの宿の部屋で、瞑想していると、
サールナートの合宿所とはまた違った感覚を味わえて面白い。
朝4時半から1時間。
まだ暗い時間。
周囲は真っ暗なのだが、
目をつぶって瞑想していると、
5時過ぎくらいから、町がザワザワし始めるのを感じれる。
それに合わせて、自分の体も活性化してくる。
梵我一致、つまり、世界が起きると感じることは、自分も起きるということか。

町と共に起きる朝。
うむ、いつも以上に、朝が心地いい。

それにしても・・・瞑想、1時間じゃ足りないよ。
あっという間に終わっちゃうよ。

※ちなみに、ヴィパサナ瞑想は、日本でも京都と千葉で体験できます。
興味ある人はぜひ!

2015.12.15 Tue l インド l コメント (0) l top
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ヴィパサナ修行から戻ってきた当日、
戻ってきたことをケシャヴ師匠の所に報告しにいったら
「じゃぁ、タブラの前に座って」
と、そのまま早速タブラ修行再開。

ヴィパサナ修行中、結局一瞬たりともタブラ練習をすることができず、
タブラを触るのは11日ぶりとなる。
どんだけ叩けなくなっているかと思いきや・・・

叩けるとか叩けないとかいう問題ではなく、
なんか、違う楽器を触っている感じがしてしまった。

この違和感は・・・
どうやら、オイラの叩き方が変わったために発生している感覚のようだ。

今までは、音を出すために手を打面に当てている感じだったんだけど、
今は、体をコントロールした結果、手が打面に当たり音がでる、という感じになっている。

ヴィパサナ修行のおかげで、まず体のコントロールをしちゃうのだ。

で、これが、気持ち悪いかと言うと・・・逆。
以前に増して<タブラを叩いている>って感じがするようになって気持ちいい。
さらに、音もよくなった。

ふおお、ヴィパサナ効果がこんなところにも現れるとは。

タブラ修行がノリにノッている真っただ中に
中断するカタチで、ヴィパサナ修行に行くことになったから、
せっかく上手くなりかけてたタブラが下手になったらヤダなとか思っていたんですケド・・・

杞憂でした。

むしろ、ヴィパサナはタブラ修行の間に挟んで正解だったよ。

いやぁ、更に楽しくなっちゃったな、タブラ修行。
残りあと1カ月、集中力全開でがんばるぞ~。

2015.12.14 Mon l インド l コメント (0) l top
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ヴィパサナ瞑想を終え、10日ぶりにバラナシに戻って来たら・・・
まぁ、ウルサイことウルサイこと。
瞑想で知覚が鋭敏になっているからか、
情報量の多さにクラクラしてしまった。
・・・っていや、バラナシは瞑想後じゃなくても、騒々しいか(笑)

さてさて、そんなバラナシを荷物を持って歩いていたら
インド人に声をかけられた。
「ニホンジンですか?」と。
いつものように宿の客引きか、はっぱ売りかと思って
無視してそのまま歩いていこうとしたら
「シンゾー・アベ、彼はいいやつだ」
と、言ってくるじゃないですか。
なぜ、首相のことを?と思って詳細を聞いてみると、
なんと、2日前に、安倍さん、ここバラナシにやってきたっていうじゃないですか。

そういえば、
町中に安倍さんの写真のポスターとか幕が貼られまくっている。
しかも、あらゆる場所に、相当デカく。

バラナシの人たちはかなり熱狂的に迎えたらしい。
親日家が多いし、
有名人訪問とか、そういうイベントごとは大好きですから、インド人。

う~む、
オイラ自身に安倍さんを見たかった気持ちはないのだが
安倍さんを熱狂的に迎えるインド人の光景は見たかった。

大好きなインドが、日本を好いてくれているってのは
なんだかとっても嬉しい。
それを実感できる、いいチャンスだったのになぁ、と思って。
でも、まぁ、こうやって、後日に
安倍さんが来たことをにこやかに嬉しそうに語ってくれているだけで、
充分、実感できるってもんだ。

それにしても、10日も俗世間から離れていると、
やっぱりいろんなことが起こってるもんですな。
まさか、安倍首相が、近くにやってきていたとは。

2015.12.14 Mon l インド l コメント (0) l top
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いよいよ最終日。
とはいうものの、ヴィパサナセンターでの日常はいつもどおりに流れる。
朝4時に起きて4時半から瞑想。

さて、10日間に及んだヴィパサナ瞑想修行。
思っていた以上の収穫だった。
っていうか、これほどの強烈な体験は、旅でこれまでに味わってなかったかも。
オイラ自身の価値観が完全に変わった。
翌日久々に外へ出て、見た世界は、今までとは違うものだった。
世界の見方が変わった。
そして、この世界の見方は、オイラ自身が探し求めていた見方だった。

世界にはモノが存在していて、人はその世界に住んでいるっていうのは、
なんか感覚的におかしいなってずっと思っていたんですよ。
フィリップ・K・ディックの小説にハマったのは、
そういう世界に大して懐疑的だったオイラの心を
見事にラベリングしてくれたからだった気がする。

さらに、自分の中にどうしても忘れることができない執着があり、
それと決別するにはどうしたらいいのか、ってずっと悩んでいた。
そして、そういうものを生み出してしまう心の正体にも興味があった。

これらはずっと、疑問のまま、オイラの心に蠢いていた。

ただ、いくら考えても答えがでない。
いつしか、これらは答えのない疑問なんだと思うようになり、
あえて考えないようにしていたのに・・・

なんと、こんなところに答えがあったのだ。

タブラをマスターすることが、オイラの旅の終着だと思っていたのに・・・

ある意味、これが、本当の終着点なのかもしれない。
永遠に解けることがない、もしくは解くとしてもこの旅ではない、
と思っていたほどの疑問の答えに出くわすことができたのだから。

いや、まてよ、逆に言うと、旅にはまだまだ面白要素があるってことだ。
あとはタブラと餃子で旅は終了だって思っていたのに、
伏兵のヴィパサナが、
パラダイムシフトを起こすほどの衝撃を与えてくれちゃったのだから。

う~ん、旅はまだまだ終われないじゃん(笑)

2015.12.13 Sun l インド l コメント (0) l top
ヴィパサナ修行9日目。
あと2日だ。
永久に終わらないかと思っていたのに、あと2日で終わるとは。
終わるのは嬉しいが、いざ終わるとなると、ちょっと寂しい。
もうちょっと続けてみたい気もする。
旅の終わりもきっとこんな感じの心境になるんだろうな。

一応、昨日、ダンマを実感できたので、満足。
満足をしてしまったからか、集中力が途絶えがち。
妄想が始まってもラベリングをして止めることができず、
以前のように妄想が果てしなく続くことが多くなった。

さて、それはそうと、
実はオイラ、右肩の背中部分にずっと痛みを持って生活している。
で、今日、集中力を巡らしている最中に、
たまたま体を左に傾けることがあったのだが、
その時にその痛みが微妙ではあるが和らぐことに気づいた。

アレッと、思って、
右肩あたりのテンションのかかり具合に注意しながら、
左傾きの姿勢にして座り続けてみたら、
見事に右肩の痛みが消えるじゃないですか。
どういうこと?と思って、
今までのように痛みを感じる体勢に戻して、目をあけてみたら・・・
なんと、世界が傾いている。
そう、オイラの体は、実はずっと右側に傾いていたのだ。
衝撃だった。

いや、右側に傾いていたことが衝撃だったワケではない。
これまでのオイラは、その状態を<まっすぐだと思っていた>ってことが衝撃だった。

これが、目の情報は脳内で相当な概念補正がかかっているってことなのだ。
カメラで捉えた単純な光の集合体であるRAWファイルと、
人間の目で見ているように補正したJPEGファイルの違いのようなもの。
人間の目の情報は、いかに概念が混じり修正されちゃっているか、
ってことに改めて気づかされた体験だった。

それにしても、気を巡らせることで、
自分自身で体の異変に気づけて、
さらにそれを自力で直すことができるっていうのが、面白い。
ヴィパサナの本質からはズレているけど(笑)
う~む、これを発展させていけば、
気功師のように、気で他人の体を直すことが出来るようになるのかも。

2015.12.12 Sat l インド l コメント (0) l top
昨日の筋肉のテンション探索が、意外にも集中力アップの効果をもたらしたのか、
今日はなんだか昨日までより体の感度がいい。

ヴィパサナをやっていると
体の感覚がどんどん研ぎ澄まされていくのを感じる。

例えば、座っている時、手を足の上に乗せているのだが、
その時接触している手と足の部分の圧力とかを詳細に感じれるようになったのだ。
今までそのセンセーションはスルーしてしまっていたのに。

さて、昨日、疲れないための姿勢を探ったのだが、
まだ完全な体勢には辿り着いておらず、
やはり、長い時間座っていると疲れてしまい、足を崩してしまった。
崩した瞬間、それまで圧迫していた足が急に開放され、
圧力が一気に抜けていく様子が感じられる・・・

と、ここで、悟りが生じた。

圧迫感というセンセーションが生まれて、変化して消えていく。
今、身体として実感できているのは、このゆらぐ感覚だけ。
つまり、身体というものは、固体として存在しているのではなく、
今実感できているこの無常に変化している<現象>でしかないんだ、
と実感してしまったのだ。

そして、それは身体に限ったことではない。
世界すべてが、この身の感覚器で知覚する<現象>でしかないのだ、
と実感してしまった。

お~、きたきた。
ついにきた。

仏教でいう、諸行無常、そして梵我一致、これを一気に体感できてしまった。
諸行無常とか梵我一致ってのは、言葉では以前から知っていた。
けど、それは概念でしかなく、自分のものではなかった。
それが、今、自分の体験として身に舞い降りてきたのだ。

足のしびれなんて、誰でも感じるものであり、
それが次第に消えていくのも誰もが感じるもの。
でも、それを
ヴィパサナ瞑想の本質「事実をありのままに見る(如実智見)」
ということを実践できるようになると、
足のしびれが単に足のしびれではなくなり、そこに世の中の真実が垣間見えてくるのだ。

足のしびれが足のしびれではなくなる?
そこに世の中の真実が見える?

何言ってんだ?

ってな反応になるでしょう。
ええ、ヴィパサナをやる前のオイラなら確実にそういう反応をしたと思います。

これは、ホントに、体感してみないとワカラナイ。
体感していない人にこの感覚を説明するのは、
目の見えない友人に<白い砂糖>の色を説明するくらい難しい。

とりあえず、分かってもらうには、以下のことをまず理解してもらわないと始まらない。

「わたしたちの見るもの、聞くもの、感じるもの、知覚するものは常に誤解と錯覚だらけです。先入観や思い込み、早とちり、思考の編集、エゴの検閲など、諸所の心のフィルターがかかって情報が歪むのです」

道脇に無造作に捨ててあるロープを見て「蛇だ」と思ってしまうことがある。
これは、早とちりが生じさせた情報の歪みってこと。

で、ヴィパサナ的には、
「ダイレクトに、直接知覚されたものには情報に歪みがない」とし、
これをダンマと呼ぶ。
そしてダンマ以外は全て概念として、区別する。

じゃぁ、ロープを見て、それをロープだと思えば、それがダンマなのか?
というと、それがそうではない。
ロープを見てロープだと思うことが、ダンマではない、
と理解するのがヴィパサナの最大に難しいところでして。

ロープが「ロープ」であると思うのですら、
それがロープであると頭が思考するからであって、
ダイレクトに、直接知覚されたものではない。
ロープだと思うのは、すでに概念なのだ。

この場合、直接知覚されたものは、
目に写る光の情報のみ。

ただし、ここで注意しなければならないのは、
目からの情報は非常に錯覚が生じやすいということ。
例えば立体感。
片目で見ると立体感を感じれなくなるように、
立体感というのは、右目で見た視覚情報と左目で見た視覚情報を
脳がフィルターとなり作り出した情報の歪み。
モノが立体であるということすら、ダンマではないのだ。

視覚情報は、このように歪んだ情報が多い。
だから、最初のヴィパサナ瞑想では、惑わされないように目をつぶる。

まぁ、とにかく、このように、
ロープだと思っていたものが、
ロープだと思うのは概念であるということを理解し、
じゃぁ、目の前にある<ロープだと思っていたモノ>のダンマはなんなのか?
とひたすら探っていくのが、ヴィパサナの本質なのだ。

ヴィパサナ瞑想中は、
とにかく体内で起こるセンセーションを観察することだけをやらされる、と書いたが、
実際にやっているのは、
こうやって、概念をはぎ取っていって、ダンマを探る作業。
ただ、ダンマってのは頭で考えても分からないものなので、
明示的には教えてくれない。
とにかく、体内のセンセーションを観察しろと言われるだけ。
で、それを素直にただ実践していれば体得できるようになる、
という、<集中力の発見>と同じ導き方。

「オイラには足がある」
って思っていたのは、概念でしかない。
ダンマとして確かめられるのは、
胡坐を組んだ時のしびれや、
伸ばした時の圧迫感から解放される感覚のみ。
ただし、それが、足のしびれや足の解放感と思ってしまったら、
それはまだ概念に囚われている。
<足の>ではなく、ただの知覚現象として捉える。
それが、ダンマを探っていくということ。

体内で起こるセンセーションを
心を綺麗にして雑念を払い、
深い観察ができるようになると、ただ、知覚現象だけが見えてくる。

心を綺麗にするというのは、
世界を歪ませている<概念>を取り払う作業でもあるのだ。

で、ココまで心を綺麗にするってのが、時間と根気がいる作業。
だから、ヴィパサナは10日もの間、一日中ただ瞑想をさせる。
そして、その間、外部からの概念が入り込むのを防ぐため、
誰とも会話することを許さず、読み書きをも禁止するのだ。

さて、そうやって、ダンマに辿り着いたら、
世界の見方が反転した。
自分の中にものすごく大きなパラダイムシフトが起こったのだ。

世界をどう捉えるか、という視点が変わってしまったのだ。
「世の中にはリアルな物質の世界があり、自分はそこに存在する一個人である」という世界観から、「リアルなのは、自分の感覚で感じれることだけであり、それ以外は全て概念(バーチャル)にすぎない」という世界観に切り替わってしまった。

純粋に感覚器で感じていることだけがリアルであり、それ以外は概念でしかない、ってことはつまり、本当の世界は、自分の中にしかなく、世界は幻想にすぎない、ってことになる。

むむ、まるでバーチャルリアリティのようなものじゃないか。

高校生の時にフィリップ・K・ディックの小説にハマって、現実感が揺らぎ、
大学時代、生命と生命じゃないモノの境目を探るロボット研究をしていて、生命とはそして生きているとは一体なんなのか?という疑問を抱え、
社会人になってバーチャルリアリティに取り組んで、世界は幻想に過ぎないのでは、という思いに至ってしまったオイラには・・・

この世界観は非常にしっくりきた。

そうか、やっぱり、そっちの世界観の方が真実だったんだ、と。
世の中にはリアルな物質の世界があり、自分はそこに存在する一個人である、という視点の方が、むしろ、それが真実ですよと信じ込まされていた概念にすぎなかったんだ、と。

癒された。
っていうか、なんか救われた気がした。
自分の感覚がずっとおかしいのかと思っていたのだが、
それでいいんだよ、って揺るぎないものに、言ってもらえたのだ。

ちなみに、なんか宗教チックな話に聞こえちゃってるかもしれませんが、
<ダンマ>は、宗教じゃないんです。

ブッダの弟子たちが作り上げた仏教的解釈は、
それはもはや概念の話なので、信じるか、信じないかという宗教的対象だと思う。
でも、ブッダ自身が悟りに至った、ヴィパサナ瞑想で見た<ダンマ>=事実、
これは、信じるとか信じないとかいう問題ではないんです。
だって、事実なんだから。

ブッダは、全ての物質は波動から出来ていることに気づいていたらしい。
現代物理学が20世紀になってようやく発見したことを、2500年前に、だ。

事実が見えるって、こういうこと。

<ダンマ>は、絶対に、体感して、実感すべきだと、強く思う。

これが実感できないから、悩み苦しむのだ。
何が事実なのか分かれば、幻想に振り回されて無駄に悩み苦しむことはなくなる・・・はず。

少なくとも、オイラは、長年抱えていた
「オイラの世界観がおかしいのではないか?」という悩みから解放されました、ハイ。

・・・って、思ったのと同時に、
その昔、あのオームに入信しちゃった人たちも、
最初はこういう心の転換があったんだろうなぁ、
と、ふと、思った。

実はこの手の体験は心のバランスをとっていないと、危険。
だからこそ、ヴィパサナでは夜の講話で、「よき生き方」の話ばかりをする。

パラダイムシフトによってはダークサイドに転げ落ちる可能性も十分あるからだ。

スターウォーズで描かれているフォース。
あれと同じこと。
ジェダイにもなりえるが、ダースベーダにもなりえてしまうのだ。

2015.12.11 Fri l インド l コメント (0) l top
ヴィパサナ瞑想は、基本的にはずっとやることは同じ。
座って目をつぶって、
ひたすら集中力を体に巡らせて体内で起こるセンセーションを観察するだけ。

で、これを、やり続けていたら集中力は上がるモノらしく、
今までは、足のしびれとか肩の痛みくらいしか感じられなかったのだが、
今日、筋肉のテンションみたいなものを感じれるようになりまして。
座っているとリラックスしているようなのだが、意外と筋肉を使っているみたいで、
よくよく観察してみると、体のあちこちにテンションがかかっている。

例えば、胡坐をかいて座って、背筋を伸ばそうとしたら、
足の付け根のところに異様に力が入っている場合があるワケですよ。

で、その力の入った状態を続けると、当然疲れるわけでして。
座っていて、途中で体勢を変えたくなるのは、
足のしびれや肩の痛みに耐えられないからだってずっと思っていたんですが、
実は、体が疲れてくるからだということが分かったんです。

足のしびれや肩の痛みってやつは、
ずっと同じだから、耐えていればそのうち感じにくくなってくる。
感じなくなっちゃうのはそれで問題なのだが、まぁ、だから耐えられるんですわ。
でも、疲れってのは、放っておくとどんどん溜まってきちゃう。
だから耐えられなくなり、体勢をくずしたい欲求に負けてしまう。

つまり、ずっと体勢をくずさずに座ってられる上級者の人たちは、
足のしびれや肩の痛みに耐えられる人になったワケではなく、
疲れない体勢で座ってられる人達だったってことなんですわ。

そういえば、上級者たちは決まって姿勢が美しい。
これは無理がない姿勢ってことだ。
力が完全に抜けて、余計なテンションがかかっていないのだろう。
そういう座り方をすれば、オイラも、ずっと同じ体勢で座り続けられるってことだ。

ということで、疲れない座り方の探求をはじめたオイラ。
自分の肉体を観察しながら、筋肉のテンションがかかりにくい座り方を探る。
今日は一日、そんなことをしてしまいまして。
ヴィパサナ本来の目的とはちょっと違って、
どちらかというと、自己ヒーリング的な方向に行ってしまった。
いかん、明日は真面目に取り組もう。

2015.12.10 Thu l インド l コメント (0) l top
ヴィパサナ瞑想5日目。
昨日、集中力をコントロールできるようになり、俄然面白くなった。
一日中、体の中を集中力を動かし戯れる。
いや、戯れるんじゃない、体中に集中力を巡らせながら、
体内で発生しているセンセーションに気づき、それを観察する。
ひたすらこれをやり続けるのがヴィパサナ瞑想の実践法。

え?ただ観察するだけ?
それじゃ、今までの鼻の観察と同じじゃないの?
と思われるかもしれませんが、
いや、集中力を意識的にコントロールできるようになると、
同じ観察でも、見えてくるものが違ってくるんですよ。

ヴィパサナの実践法は、
例えて言うなら病院でCTスキャンをやるのを自分でやるのと同じようなこと。
体内を自分で見る?そんなことが可能なのか?なんて思うかもしれないが、
体の痛みやしびれを感じることは誰でもできるでしょ。
集中力をコントロールして体の各部を見ていくと、
そこで発生している痛みやしびれが、
まるで顕微鏡で拡大したかのように感じれるようになるんですわ。
こうして、より精度よく感じれるようになるので、
自分の体の詳細が自分で分かってくるようになるってワケ。

これが楽しい。

何も、瞑想だからって特別なことが感じ取れるようになるワケじゃない。
ヴィジョンが見れるとか、そういうことではないのだ。
ただ、顕微鏡でモノを拡大してみると、普段見えなかったモノが見えてきて、
ミクロの世界が小宇宙のように感じるように、
集中力をコントロールして自分の肉体で起こっていることを増幅して感じれるようにすると、
普段感じれなかったモノが感じれるようになるだけの話。

で、ミクロの世界が斬新なように、
集中力をコントロールして感じる増幅された体内のセンセーションが、
まるで新しいビジョンのように感じ取れるようになり、興味深いってことなのだ。

ただ、オイラの集中力はまだそこまで高めれないので、
微細な動きを自在に感じて楽しんでいるってワケじゃない。
1日中やり続けて、何回か、しかも一瞬肉体のセンセーションを感じれている気になるだけ。

さてさて、一方、肉体的なセンセーションではなく、
意識的なセンセーションはバンバン感じれるようになった。
意識的なセンセーションとは、心に発生する感情や、思考のことだ。

もともと、妄想は得意ですから。
集中力があがったら、妄想感度もさらに上がっちゃったんですわ。

ヴィパサナでは、
こういう妄想などの心に生じるものも、
観察すべきセンセーションの一つとして捉えている。
妄想が想起するってのも、
体に痒みが生じるのと同じレベルの
体内で起こるセンセーションの一つと捉えるのだ。

で、以前は妄想が発生したらひたすらその妄想にのめり込んでいったのだが、
集中力がコントロールできるようになったので、
その妄想に集中力全てがつぎ込まれるのを阻止し、
その発生した妄想を客観的に見ることが出来るようになった。

よくよく客観的に観察してみると、
妄想ってやつは
過去と未来のことばかりなのだ。
未来の希望を思い描きテンション上げたり
過去の執着を忘れられず、ノスタルジーに浸ったり。
妄想では、そんなことばかりしている。
今、がない。
つまり、妄想ばかりしているってのは、
今を生きていないってことなのだ。

だから、思考に溺れるとリアルを感じれなくなるのだ。
旅をしてリアルな世界に飛び出したかのように思えても、
やっていることが頭の中での思考ばかりだったり、
思考や妄想のるつぼであるインターネットを見てばかりでは、
リアルではないのだ。
今流れている風の爽やかさを肌で感じ、
川に飛び込んでそこに流れている水の流れを感じ、
ペダルを漕いで肉体の躍動を感じることでしか
リアルを実感することはできないのだ。

つまり、リアルを感じたいのであれば、
妄想は止めたほうがいいってこと。

では、どうやって妄想を止めたらいいのか。
この妄想ってやつは放っておくと、肥大に膨れ上がる。
が、この妄想のセンセーションにすぐに気づき、
膨れ上がる前に「これは妄想」とラベリングしてしまうことで、
その妄想は、不思議と消えるのだ。
これが、ヴィパサナテクニック。

ただ、これはある程度意識的に行わないと効かないので、
集中力をコントロールする技術がないと難しい。
だから、ヴィパサナでは、まず集中力をコントロールする術を体得せねばならないのだ。

で、こうして、
心で起こる妄想や感情や思考を消していくのが、心を綺麗にするということ。
心で発生し続けるこれらは意識して、ラベリングして消してやらないと、
肥大化しつづけ心が溢れてしまうのだ。
その結果、執着が発生し、行動が縛られたり、苦しみが生じたりする。
思考や妄想ばかりに時間を使うことになり、今を生きれなくて、リアリティが喪失していく。

思考や妄想は、事実ではない。
事実でないものに心がどんどん占められてしまう。
これが、<考える生物>となってしまった人間の抱える悲劇なのだ。

事実から発生する苦悩には直面しなければならないが、
事実でない思考や妄想が生むものに苦悩するのは馬鹿らしい。
別れた彼女のことをいつまでも思うのは、執着という名の妄想であって、事実ではない。
これに悩むのは、意味がないことなのだ。
思考や妄想を止めればいい。
思考や妄想を止めることで、事実でないものは消えていく。
いつまでも、思考や妄想を止めないから、執着はただ肥大化していくのだ。

そして、思考や妄想や湧き上がる感情を止めることに成功し、
心を綺麗にしきったら、事実=真実だけが浮かび上がってくるってことなのだ。

なるほど、心を綺麗にしなさいってのは、
こういうことで、そういう意味があったのか。

今まで、心を綺麗にしなさいってもの、
よく分からなかったんですよねぇ・・・
それが、ようやく分かってきた。

それにしても、妄想を妄想としてラベリングするだけで消えるだなんて・・・
コロンブスの卵っていうか、目から鱗の大発見。

が、ここでふと思った。

知っている人は知っているはずなのだが、
オイラは異様なメモ魔。
まぁ、毎日書き続けているホームページの日記を見れば
知らない人でも分かってくれるとは思うのだが。

で、メモ魔なオイラがやってきたことは、結局心の浄化だったんだと、気づいたんですわ。

ただ、これまでは、
このメモ行為は、忘れないようしていたんだと思っていた。
でも、そうじゃなかったんだ、と。
忘れないようにメモしていたワケじゃなく、
忘れるためにメモしていたんだ、と思って腑に落ちたんですよ。
メモとはラベリング。
メモをすることで、頭の中に占めていた妄想が一旦終わる。
そういえば、旅も、日記を書いてしまえば、スッキリして次に起こることを楽しめるのだが、
日記を書かないで貯めてしまうと、まだ書いていない過去の出来事ばかり頭を巡って、
今の状況を楽しむ余裕がなくなってきちゃったりしてた。

なるほど、妄想を消す大切さや心地よさには薄々気づいて
無意識ながら、実践はしていたんですよ。

ヴィパサナ瞑想は、異次元の特別な方法なワケじゃない。
普段何気なくやっている真実に近づくための方法を、
意識的にやれるようになる訓練をさせてくれるものなのだ。

2015.12.08 Tue l インド l コメント (0) l top
ヴィパサナ瞑想4日目の午後、
「これまでの集中力強化の訓練は終わり。これから本格的なヴィパサナ瞑想の実践に入る」ということになった。

え、ちょっと待ってくださいよ。
集中力強化の訓練は終わりって・・・
ただ鼻の呼吸を観察してただけじゃないですか。
そもそも集中力が何かってことすら分かってないし、
それが身についたかどうかなんて全然分かんないんですケドも。

そう、集中力ってなんなのか、小さい頃から分からなかった。
よく、勉強する時「集中してやりなさい」とか言われるじゃないですか。
でも、何をもって集中なのか全然分からないワケですよ。
ただ机に座っていれば、集中していることになるワケじゃないですし。

だから、今回も、フォーカスを鼻に集中しろと言われても、
正直そのフォーカスなるものがなんであり、
それを鼻に集中するってのがどういうことなのか、分からなかった。
とりあえず、鼻の空気の流れを観察するっていうことは分かったので、
それだけはやっていたけど。
で、これをやっていくうちに、
フォーカスってものが何か分かるようになるのかな、と思いきや、
3日経っても分からない。
分かってないのに、それは終わりって言われても。
次に本格的なヴィパサナ瞑想に移るって言われても。

むむ、一日目に、言われたままにはやらず、
勝手に妄想をしていたから、遅れをとってしまったのか、なんて思い、ちと焦る。

さて、そんなこんなで、オイラの思いとは関係なく、
瞑想は、ヴィパサナ方法に切り替わることに。
鼻に集中していたフォーカスを頭のてっぺんからつま先まで、動かして
今度は鼻だけでなく、全身を観察して、気づきを探せっていう課題になった。

いやいや、だから、フォーカスってのが分からないのだから、
それを動かすなんて無理ですよ・・・と思いながら、
とりあえず、鼻呼吸の観察に費やしていた意識を頭のてっぺんに向けてみる。
が、やはりよく分からない。
頭のてっぺんに意識がいけているのかすら分からない。
そのままその意識的なものを頭蓋骨、額、眉、目、鼻、口と降ろしていく。
鼻だけは息が動いているので、何かを感じれるのだが、それ以外は全く何も感じない。
フォーカスを動かせているのか、まったく分からない。

とりあえず、意識なるものをそのまま下げ続け、
首から右肩に降ろし、そのまま右腕の上腕に向けたところで・・・
突然何かを感じた。
元気玉みたいなのが体内で発生したのだ。
そして、その元気玉、オイラの意識なるものに従って、肩から上腕そして、肘、手首、指先に向かってグリグリと動かせるじゃないですか。

ふおお、なんだこれ!?

やばい、やばいことが体に起こっちゃっているぞ。
なんだか、やばすぎて、笑いがこみ上げてくる。
と、オイラの真後ろの瞑想者がクスクス静かに笑っているのが聞こえてきた。
お、ひょっとして、後ろの彼も、オイラと同じことを感じちゃっているのか?

その元気玉は右腕に留まらず、左腕、そして、喉から体の中をグルグル動かせた。
一旦この感じがつかめたら、頭の中でも動かせるようになった。

ビックリ体験ですわ。
この旅一番の超常現象体験。

ふむむ、これが、<気>と言われるものなのか。
そして、集中力と呼ぶものなのか。
きっと、鼻だけを観察し続けている間も、この感じはあったのだろう。
自覚はなかったけど3日の間、集中し続けることで、集中力が高められていたんだろう。
というか、今回に限らず、
これまでのオイラの人生で、この感じは何度もあったのかもしれない。
ただ、気づかなかった。
そして、これが、こんなにもコントローラブルなものだってことを知らなかった。

鼻に集中しているだけだと、集中しているのか分からなくなる。
他の瞑想法では単に集中力を上げることによって、瞑想状態に入るものがほとんど。
ヨガの時にやった炎を見続ける瞑想法は、まさにそれ。
タイでやった心に水晶玉のイメージを抱き、それだけを考えなさいってのも、それ。
が、それらの時も、集中ってのがよくわからなかったから、瞑想そのものがピンとこなかった。
一応集中らしきものをしてみてはいるので、ひょっとしたら集中しているのかもしれないけど、
それだけだと、集中しているかが分からないんですよ。
動きがないと感知しづらいのだ。

そこへいくと、このヴィパサナのやり方は、集中力がなんたるかを教えてくれた。
ヴィパサナは集中力を動かす。
動かすことで、変化が生じる。
人間の知覚は変化に敏感。
変化することで、ナニか=集中力=気が存在することを感じ取れるのだ。

(右腕で知覚できたのは、タブラ修行で手を鍛えまくっている最中だったからかも。
センシティブな状態になっていて気を感じやすくなっていたんだと思う)

これが集中力ですよ、と明示的に教えてはくれない。
でも、それを<自分で実感できるように>修行を進めてくれる。
それが、ヴィパサナなのだ。
だから、頭で分からないからと、嘆く必要はない。
言われた通りにやっていれば、体が分かってくれる。

それにしても、この感覚はめっちゃ面白いし、気持ちいい。
ひょっとして、これが瞑想か?と思ったけど、
いや、これは単に気を感じコントロールできるようになっただけらしい。
これは瞑想のための技術、道具立てに過ぎないのだ。
これから、これを使って本格的な瞑想に入っていくってワケだ。
つまり、この3日半は瞑想に入るための技術を身につけたにすぎない

ふおお、この感覚を使っての瞑想か。
めっちゃ楽しみになってきたぞ。
後6日半、これで退屈せずに過ごせそうだ。

さて、夜になり講話の時間になった。
いつもなら日本語のテープで話が聞けるのだが、
今日はテープの調子がおかしいということで、英語の講話ビデオを見ることに。
実は2日目にも同じことが起こり、その時、英語の講話ビデオを見たのだが、
グエンカ師の話す英語が難しく、内容がとんと頭に入らなかったんですよ。
なのに、今回は・・・なんと、内容が分かるじゃないですか。
前回と同じグエンカ師のお話で、急に英語が易しくなったワケではない。
それに、ここでは誰とも話していないし、英語の勉強もしていないのだから、
英語力が急激に伸びるなんてことはありえない。
なんで、今回は、こんなに分かるんだろうと思ったところ・・・

昼間身につけた集中力だ、と思い至りまして。

今回の英語は分かると言うものの、単語全部が分かるワケではない。
ところどころで分からない単語や言い回しが出てきて、話が見えなくなる瞬間がある。

で、今まではそこで脱落していたんですよ。
一度話が見えなくなったら、話を聞くのを諦めて、他のことを頭で考えていた。
聞いていることとは別の妄想を頭の中で展開していた。
つまり、集中力が違うほうへ行ってしまっていたのだ。
音としては聞いているが、内容を理解しようなんて頭は働いていない。
そりゃ、話の内容が分かるワケないってことですよ。

一方、今回は、集中力がコントロールできるようになったので、
一度話が見えなくなっても、集中力をそのままビデオに向け話を聞き続けるようにできた。
すると、すぐにまた分かる単語が出てきて、話が見えてくるじゃないですか。
結果的に虫食い状態で、話の全部が分かったワケではないが、
以前は聞いてなったから掴むことすらできなかった話の全貌が、
なんとなくは掴めるようになったんですよ。

英語が苦手だって思い込んでたけど、
単に集中力が散漫だっただけの話だったんじゃんか。

それにしても、なるほど、集中力はこういう効果があるのか。。
これ、ヴィパサナだけでなく、いろんなところに使えるんじゃん。
集中力が身につけられただけでも、ヴィパサナ瞑想合宿に参加した甲斐があったってもんだ。

一度分かっちゃえば、使うのは簡単。
自転車に乗れるようになるのと同じだ。
が、分かるまで意識的には使えないのだ、これ。
自分の体の中に内包している素晴らしい能力なのに。
あ~、もったいない。
44年間もアンコントロールだったことが悔やまれる。

2015.12.07 Mon l インド l コメント (0) l top
P1220806.jpg

4時起床。
今日もヴィパサナ瞑想の一日が始まる。
ただ鼻の呼吸を観察し続けるだけの一日が始まる。
しかし、まだ2日しか終わっていないのか。
あと8日もこんな日が続くってのが、なんか途方もない絶望感を誘う。

いや、このヴィパサナセンターでの生活、決して苦しいワケではない。
一人で居ることも、
誰とも喋らないことも、
一日中座っていることも、
オイラにとってはそんなに苦ではない。
食事も美味しいし、
生活で困るようなことは何も起きない。

が、何も起きないことがずっと続くってのが、絶望感へといざなうのだ。

人間の心は常に刺激を求めているんだと思う。
退屈を一番に嫌う。
オイラなんて典型的なその手の人間だ。
日本では、退屈な時間をなくすために、一日中仕事をし、ワーカホリックになり、
それでも余る時間は、ひたすら趣味で穴埋めしてきた。
マンガ、音楽、映画・・・
これらは、退屈な時間をつぶすために没頭してきたと言ってもいいだろう。
旅もそうだ。
旅をしてても、常に時間を埋めることばかりをやっていた。

旅中、外からの刺激で退屈を埋めていくことはなにかとお金がかかるので、
妄想というお金のかからない自己発電によって退屈時間を埋める術を身につけた。
これだと、なんの気兼ねもなしに、延々に時間がつぶせるようになる。
インドでしばしば発生する待ち時間も気にならなくなった。
妄想という力で楽しむことによって、8時間くらい列車が遅延しても、全然平気になった。

で、ヴィパサナにおいて問題なのが、この妄想だ。
瞑想の時間の間、妄想にふけることで瞑想時間をも苦にしないことは可能だ。
実際初日にオイラはそうやって過ごした。
が、一応心に湧き起こることを無理に抑圧することはない、とは言われるものの、
あまり妄想で頭をいっぱいにしてしまうのは、なんだか違うと思いまして。
それだと、今までのオイラと一緒じゃないかと。
わざわざヴィパサナ瞑想をやる意味がないじゃないかと。
で、1日目夜の講話を聞いてから、
ヴィパサナの実践指導に従って、ただ呼吸に集中することにしたのですが・・・

これが、退屈なんですわ。

呼吸って基本的に規則正しいじゃないですか。
しかも、平常心でありなさいと言われているので、なおさら呼吸は乱れず、変化がない。
それをずっとただ観察し続けろってのは・・・ただただ退屈なんですわ。
退屈嫌いのオイラの心が、とにかくこの状況に対して拒否反応を示してくる。

ただし、実は、ヴィパサナ瞑想自体は退屈なものではない。
体に続々と起こっている変化に気づくのがヴィパサナ瞑想の本質なので、
本来は、退屈などしないものなのだ。
鼻を通る空気は、毎回違うものであり、それに気づくことがヴィパサナ。
が、その世界に入り込むためのテクニックである気の集中というものを身につけないと、
その変化に気づくことができず、楽しむことに至れない。
だから、その<集中力>というテクニックを身につける最中である今、
猛烈な退屈心と格闘しなくちゃならない、って状況なのだ。
今はまだ、鼻を通る空気が毎回違うものだなんて、感じ取れないよ。

・・・って、妄想は抑えるといいながらも、
しっかり、こんな思考に逃げながら、
ただただ、時間が早く過ぎることを願うヴィパサナ2日目、3日目なのであった。

2015.12.06 Sun l インド l コメント (2) l top
チーズゆき
私もたまーにヨガで瞑想のレッスンしますが1分もつらい。
すごいな、瞑想!


チャリヨシ
チーズゆきさん、集中力を身につけると1分は楽勝、いや1時間でも楽勝になりますよ。僕はヴィパサナ瞑想合宿後も、朝1時間の瞑想を習慣化してやるようにしてますが、1時間、あっという間に過ぎちゃいます。



P1220803.jpg

今日からヴィパサナ瞑想開始。
朝4時、まだ暗い中、敷地内に鳴り響く鈴の音で起こされる。
4時半にホールに集合。
瞑想者は男性25人、女性20人。
インド人と外国人混合。
外国人の方がちょっと割合が多いかなって感じ。
日本人はオイラを入れて3人いた。
ただ、この10日間、瞑想者同士の会話は禁止されているので、
どこから来たのか、名前はなんていうのか全く分からない人達ばかり。

P1220811.jpg

さて、ホールでは決められた自分の位置に座って、瞑想開始。
瞑想方法を教える録音された声が流れる。
それによると、鼻の呼吸を観察し続けろとのこと。
座布団の上に胡坐を組んで座って、やることは、ただ、それだけ。

ちなみに、鼻の呼吸を観察するとは、
例えば鼻を通る空気の流れとかを知覚するってこと。
(ヴィパサナ的に正確に言うのならば、鼻付近にある知覚で生じる変化に気づけってことなのだが、それはそれでまた説明が必要となるので、ひとまず空気の流れを掴むことって、思ってくださいな)
鼻付近だけに意識を向け、ひたすら客観的にそこで起こっていることを感覚で観察する。
それをやり続けると、髭にあたる鼻息とか、吸う息の温度と吐く息の温度の違いとかまで感じれるようになるらしい。
それが、集中力が高まったってことのようだ。

なるほど、まずは鼻のセンセーションを見るということなのね。
実は、その辺の実践方法は、リシケシの日本食屋に置いてあった本で読んで勉強済。
その気づきにラベリングするんでしょ。
そして、体の観察中に思考や感情が湧き起こったら、
それにもラベリングして気持ちを抑えればいいんでしょ、と、
本を読んで勝手に解釈した自己流瞑想を始めた。
だって、言われたままだと、退屈なんだもん。
呼吸に集中するより、
自分の中に次から次へと浮かんでくるいろんな気持ちをラベリングして抑える方が面白い。

で、ビックリするくらい自分の中で気持ちが湧き起こっているのを実感した。
オイラ自身、よく考える人だとは自覚していたが、
それにしても、こんなにもいろんなことが頭に浮かび、しかも、それが脈絡もなく変化するとは。
なるほど、これが、心が濁っている状態なのか。
これを抑えることが心の浄化につながるのね、とこれまた勝手に解釈。

6時になり朝飯。
ポリッジにキチュリーにバナナ、という完全ベジ料理。
ここでの食事はあまり期待していなかったのだが、味は結構美味い。
特にキチュリーは絶品。
インド飯に慣れていれば、十分いける飯だ。

P1220814.jpg

食後は8時まで休み。
こういう休み時間があると聞いていたので、
その時間にタブラを練習しようと重いタブラを持ってきたのに・・・
音出しは禁止事項の一つ。
結局10日間タブラ練習は全然できず(涙)

8時からまたホールに集まり瞑想。
9時過ぎに終わり、5分くらいの休憩があった後、再び瞑想。
昼飯の11時までひたすら瞑想だ。
ただ、自分の頭の中に次々と浮かび上がってくる思考と戯れるのは楽しい。
一人妄想でいくらでも遊べる。
苦行って聞いてたケド、全然大したことないじゃないか。

生活パターンも、朝早い以外はタブラ修行の延長なので、違和感もない。
タブラを叩いているか瞑想しているかの違いだけだ。
師匠以外とは特に誰とも喋らず、それだけを1日中やっているという点では同じ。

さて、11時からの昼飯はカレー的なものだった。
ライスにジャガイモのサブジにチャパティ、そしてスイーツまでつく。
いやはや、飯のクオリティは90点。
この飯のクオリティがあったから、10日間耐えられた、と言っても過言ではない。
次第に過酷になっていった瞑想修行、
途中からは、飯の時間が唯一の救いとなったからだ。

飯の後の13時までの休憩時間は、昼寝。

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そして、13時からホールに集まり瞑想。
14時半過ぎまでやって、ちょっと休んだ後、15時半まで瞑想。
そこでまた一休みした後、17時まで瞑想。
オイラはひたすら妄想して、この時間を楽しむ。

17時からティータイム。
お茶だけかと思ったら、スナックとしてチウラという乾燥米が出てきた。
そのチウラを炒めてあるのだが・・・これまた結構美味い。

そして、18時からまた瞑想。

19時からは座学。
講話を聴くのだが・・・なんと日本語のテープがあるということで、日本語で聞けることに。
で、それを聞いたら・・・
オイラが、今日一日やっていたことは、まるで違っていたことが判明。
妄想や感情が浮かぶとは思うが、それに入り込んではダメ。
とにかく呼吸に集中することが大事だ、と。
頭に浮かぶことは、ほっとけ、と。
呼吸に集中すれば、それらは自然と浮かばなくなる、とのこと。
今はまだ瞑想うんぬんとう段階ではなく、
そういう集中力をつけるための時間なんだと。

やはり、自分勝手にやるのは止めよう。
それでろくなことにならないのは、打楽器修行で体験済じゃないか。
こういうのは、指導者の言う通りにやるのがベスト。
ということで、明日からは心を入れ替えて、言われる通り、呼吸に集中することにしよう。

講話の後、20時から1時間ほど、瞑想。
ここから、言われる通りに、ひたすら呼吸に集中。

で、21時過ぎに瞑想終了。
ひたすら瞑想して過ごした一日が終わった。
停電で電気がつかない部屋に戻る。
こんな時間に眠れるかいなと思っていたのだが、意外とすぐ寝付けた。
ただ座っているだけなのに、意外と疲れるようだ。

2015.12.04 Fri l インド l コメント (0) l top
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一番やりたいことを思う存分やれているだけでも幸せなのに、
よき師匠が正しい道を導いてくれて、
自分がどんどん成長しているのを実感でき、
もっともっと生きるのが楽しくなってくる、という
最高にポジティブサイクルなタブラ修行の日々。

毎日日記に書ききれないほどの出来事や想いが炸裂し、
(一応、日記には、毎日1時間半かけて全て書きとどめてます、ハイ)
もはや、書きたいことがありすぎて
逆にブログに何も書けないという、最近の現状。

何事も伝えることを第一に考えてきたのに・・・
いやぁ、この旅で初めてじゃないですか、こんなこと。

インドは、伝えたいこと以上に面白いことが起こりすぎる。

さて、そんなタブラ修行はまだまだ続くのですが、
実はここで一旦小休止。

今日から、10日間、
あのブッダが悟りを開いたという瞑想法
<ヴィパサナ瞑想>を体験しに
サールナートへ行ってまいりやす。

ヴィパサナとは、
他のどんな瞑想法よりも多くの人々を光明に導いてきたと言われている瞑想法。
10日間座り続け、誰とも話してはダメで、ひたすら自分と向き合うという。

いやぁ、ようこ&ひろさんのブログで知って以来、
めっちゃ興味あったんですよ、ヴィパサナ瞑想。
それをついに体験できるとは。
楽しいタブラ修行を中断してまで行こう、と思えるくらい期待が高い。

タブラ修行以上のものは、果たして得られるのか!?
・・・って、期待しちゃう心が、ヴィパサナ的にはNGらしい。

さてさて、ということで、
しばらく音信不通でしたが(笑)、
ここから10日ほどは、寺籠りとなるため、
さらに音信不通になると思います、ハイ。

2015.12.03 Thu l インド l コメント (0) l top
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