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昨日の筋肉のテンション探索が、意外にも集中力アップの効果をもたらしたのか、
今日はなんだか昨日までより体の感度がいい。

ヴィパサナをやっていると
体の感覚がどんどん研ぎ澄まされていくのを感じる。

例えば、座っている時、手を足の上に乗せているのだが、
その時接触している手と足の部分の圧力とかを詳細に感じれるようになったのだ。
今までそのセンセーションはスルーしてしまっていたのに。

さて、昨日、疲れないための姿勢を探ったのだが、
まだ完全な体勢には辿り着いておらず、
やはり、長い時間座っていると疲れてしまい、足を崩してしまった。
崩した瞬間、それまで圧迫していた足が急に開放され、
圧力が一気に抜けていく様子が感じられる・・・

と、ここで、悟りが生じた。

圧迫感というセンセーションが生まれて、変化して消えていく。
今、身体として実感できているのは、このゆらぐ感覚だけ。
つまり、身体というものは、固体として存在しているのではなく、
今実感できているこの無常に変化している<現象>でしかないんだ、
と実感してしまったのだ。

そして、それは身体に限ったことではない。
世界すべてが、この身の感覚器で知覚する<現象>でしかないのだ、
と実感してしまった。

お~、きたきた。
ついにきた。

仏教でいう、諸行無常、そして梵我一致、これを一気に体感できてしまった。
諸行無常とか梵我一致ってのは、言葉では以前から知っていた。
けど、それは概念でしかなく、自分のものではなかった。
それが、今、自分の体験として身に舞い降りてきたのだ。

足のしびれなんて、誰でも感じるものであり、
それが次第に消えていくのも誰もが感じるもの。
でも、それを
ヴィパサナ瞑想の本質「事実をありのままに見る(如実智見)」
ということを実践できるようになると、
足のしびれが単に足のしびれではなくなり、そこに世の中の真実が垣間見えてくるのだ。

足のしびれが足のしびれではなくなる?
そこに世の中の真実が見える?

何言ってんだ?

ってな反応になるでしょう。
ええ、ヴィパサナをやる前のオイラなら確実にそういう反応をしたと思います。

これは、ホントに、体感してみないとワカラナイ。
体感していない人にこの感覚を説明するのは、
目の見えない友人に<白い砂糖>の色を説明するくらい難しい。

とりあえず、分かってもらうには、以下のことをまず理解してもらわないと始まらない。

「わたしたちの見るもの、聞くもの、感じるもの、知覚するものは常に誤解と錯覚だらけです。先入観や思い込み、早とちり、思考の編集、エゴの検閲など、諸所の心のフィルターがかかって情報が歪むのです」

道脇に無造作に捨ててあるロープを見て「蛇だ」と思ってしまうことがある。
これは、早とちりが生じさせた情報の歪みってこと。

で、ヴィパサナ的には、
「ダイレクトに、直接知覚されたものには情報に歪みがない」とし、
これをダンマと呼ぶ。
そしてダンマ以外は全て概念として、区別する。

じゃぁ、ロープを見て、それをロープだと思えば、それがダンマなのか?
というと、それがそうではない。
ロープを見てロープだと思うことが、ダンマではない、
と理解するのがヴィパサナの最大に難しいところでして。

ロープが「ロープ」であると思うのですら、
それがロープであると頭が思考するからであって、
ダイレクトに、直接知覚されたものではない。
ロープだと思うのは、すでに概念なのだ。

この場合、直接知覚されたものは、
目に写る光の情報のみ。

ただし、ここで注意しなければならないのは、
目からの情報は非常に錯覚が生じやすいということ。
例えば立体感。
片目で見ると立体感を感じれなくなるように、
立体感というのは、右目で見た視覚情報と左目で見た視覚情報を
脳がフィルターとなり作り出した情報の歪み。
モノが立体であるということすら、ダンマではないのだ。

視覚情報は、このように歪んだ情報が多い。
だから、最初のヴィパサナ瞑想では、惑わされないように目をつぶる。

まぁ、とにかく、このように、
ロープだと思っていたものが、
ロープだと思うのは概念であるということを理解し、
じゃぁ、目の前にある<ロープだと思っていたモノ>のダンマはなんなのか?
とひたすら探っていくのが、ヴィパサナの本質なのだ。

ヴィパサナ瞑想中は、
とにかく体内で起こるセンセーションを観察することだけをやらされる、と書いたが、
実際にやっているのは、
こうやって、概念をはぎ取っていって、ダンマを探る作業。
ただ、ダンマってのは頭で考えても分からないものなので、
明示的には教えてくれない。
とにかく、体内のセンセーションを観察しろと言われるだけ。
で、それを素直にただ実践していれば体得できるようになる、
という、<集中力の発見>と同じ導き方。

「オイラには足がある」
って思っていたのは、概念でしかない。
ダンマとして確かめられるのは、
胡坐を組んだ時のしびれや、
伸ばした時の圧迫感から解放される感覚のみ。
ただし、それが、足のしびれや足の解放感と思ってしまったら、
それはまだ概念に囚われている。
<足の>ではなく、ただの知覚現象として捉える。
それが、ダンマを探っていくということ。

体内で起こるセンセーションを
心を綺麗にして雑念を払い、
深い観察ができるようになると、ただ、知覚現象だけが見えてくる。

心を綺麗にするというのは、
世界を歪ませている<概念>を取り払う作業でもあるのだ。

で、ココまで心を綺麗にするってのが、時間と根気がいる作業。
だから、ヴィパサナは10日もの間、一日中ただ瞑想をさせる。
そして、その間、外部からの概念が入り込むのを防ぐため、
誰とも会話することを許さず、読み書きをも禁止するのだ。

さて、そうやって、ダンマに辿り着いたら、
世界の見方が反転した。
自分の中にものすごく大きなパラダイムシフトが起こったのだ。

世界をどう捉えるか、という視点が変わってしまったのだ。
「世の中にはリアルな物質の世界があり、自分はそこに存在する一個人である」という世界観から、「リアルなのは、自分の感覚で感じれることだけであり、それ以外は全て概念(バーチャル)にすぎない」という世界観に切り替わってしまった。

純粋に感覚器で感じていることだけがリアルであり、それ以外は概念でしかない、ってことはつまり、本当の世界は、自分の中にしかなく、世界は幻想にすぎない、ってことになる。

むむ、まるでバーチャルリアリティのようなものじゃないか。

高校生の時にフィリップ・K・ディックの小説にハマって、現実感が揺らぎ、
大学時代、生命と生命じゃないモノの境目を探るロボット研究をしていて、生命とはそして生きているとは一体なんなのか?という疑問を抱え、
社会人になってバーチャルリアリティに取り組んで、世界は幻想に過ぎないのでは、という思いに至ってしまったオイラには・・・

この世界観は非常にしっくりきた。

そうか、やっぱり、そっちの世界観の方が真実だったんだ、と。
世の中にはリアルな物質の世界があり、自分はそこに存在する一個人である、という視点の方が、むしろ、それが真実ですよと信じ込まされていた概念にすぎなかったんだ、と。

癒された。
っていうか、なんか救われた気がした。
自分の感覚がずっとおかしいのかと思っていたのだが、
それでいいんだよ、って揺るぎないものに、言ってもらえたのだ。

ちなみに、なんか宗教チックな話に聞こえちゃってるかもしれませんが、
<ダンマ>は、宗教じゃないんです。

ブッダの弟子たちが作り上げた仏教的解釈は、
それはもはや概念の話なので、信じるか、信じないかという宗教的対象だと思う。
でも、ブッダ自身が悟りに至った、ヴィパサナ瞑想で見た<ダンマ>=事実、
これは、信じるとか信じないとかいう問題ではないんです。
だって、事実なんだから。

ブッダは、全ての物質は波動から出来ていることに気づいていたらしい。
現代物理学が20世紀になってようやく発見したことを、2500年前に、だ。

事実が見えるって、こういうこと。

<ダンマ>は、絶対に、体感して、実感すべきだと、強く思う。

これが実感できないから、悩み苦しむのだ。
何が事実なのか分かれば、幻想に振り回されて無駄に悩み苦しむことはなくなる・・・はず。

少なくとも、オイラは、長年抱えていた
「オイラの世界観がおかしいのではないか?」という悩みから解放されました、ハイ。

・・・って、思ったのと同時に、
その昔、あのオームに入信しちゃった人たちも、
最初はこういう心の転換があったんだろうなぁ、
と、ふと、思った。

実はこの手の体験は心のバランスをとっていないと、危険。
だからこそ、ヴィパサナでは夜の講話で、「よき生き方」の話ばかりをする。

パラダイムシフトによってはダークサイドに転げ落ちる可能性も十分あるからだ。

スターウォーズで描かれているフォース。
あれと同じこと。
ジェダイにもなりえるが、ダースベーダにもなりえてしまうのだ。

2015.12.11 Fri l インド l コメント (0) l top

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